この世にはびっくりするくらい暇な人たちがいる。
彼らはネットの世界にどこにでもいる。
あなたのすぐそばにも。
何か気に入らない、好きじゃないものを見つければすぐに噛みつき、徹底的に叩く。
このブログを初めてネットのいろんな部分と関わってみて僕にはそれがよくわかった。この世には人のすることにいちいち口出ししないと気が済まないびっくりするくらい暇な人間がたくさんいるのだ。
先日、りゅうちぇるさんが妻のぺこさんの本名と7月に生まれたばかりの息子さんの名前をタトゥーにして刻んだことを明かした。
結果、批判が相次いだ。
「タトゥー入れるとかありえない」
「将来、温泉やプールにリンクくんと行けなくてかわいそう」
「テレビに出る回数が減ると思う」
「もっとシッカリしたパパなのかと思ってたのに、残念」
そんな意見が相次いだ。
ネットでよくみられる光景である。
事実、有名な人には必ずアンチが存在する。攻撃的な発言をしている人ならまだしも、あのオリンピックて二連覇した羽生結弦選手にもアンチがついている。
この事実から分かるように、アンチはどこにだって湧く。あの羽生くんにですら悪口を投げつけずにはいられない人がいるんだからもう仕方がない。諦めるしかない。
先日、僕が書いたこの記事にはかなり色々な意見が寄せられた。
はてなブログのホットエントリーにも載り、スマートニュースのトップにも一時掲載された。いつもより多くの方が記事を読んでくれ、その分反響も大きかった。
はっきり言ってコメントは荒れに荒れた。僕のブログのコメントは承認制になっていて、届いた声は僕が一度みて承認を押せば表示されることになっている。
この記事にはさすがの僕もブチギレそうになるコメントが多かったがとりあえずほとんど承認した。興味がある方は上の記事のコメント欄をのぞいてみてほしい。
どれというわけではないが痛烈な批判が多い。僕の人間性まで否定しているようなものも見受けられた。
ただネットに記事を投稿している以上、これは仕方がない。特にこの記事はいろんなところに拡散され、普段僕の記事を読んでいない人にも届いた。
僕は全ての記事でなるべく中立の立場であろうとしている。もちろん好みもあるが、逆の立場も尊重してきたつもりだ。この記事に関してはかつてオタクだった頃の自分の話を思い出し、その記憶を綴ったにすぎず、決してオタクを批判したわけではない。ただ自分の思い出を綴っただけだ。しかしそれを誤解されてしまうと問題が生じ、批判が相次ぐ。あくまで自分の思い出を書いただけだが、一部の人には僕が僕に向けたベクトルがあたかも読んでいる自分に向いているかのように錯覚し、気に入らないスイッチを押してしまったのかもしれない。
しかし僕自身、これまでも何度も目を覆いたくなるような批判を受け続けており、そう言った誹謗中傷には慣れっこになった。
はっきり言ってもう何を言われたも響かない。「死ね」だの「キモい」だの「調子のんな」だの。よく送られてくるがもうノーダメージだ。
それができるようになったのは、僕がある考え方をできるようになってからだ。
それこそが「人は人、自分は自分」という考え方だ。
事実、今年の初めまで僕は妬み僻みを腹に抱えた性根の曲がった人間だった。
親の金で留学に行く人を見れば「金持ちの家に生まれて良かったな」と小言を良い、つまらないギャグで盛り上がる学科のウェイを見ては「そんなつまらねえことで騒ぐな」と軽蔑し、プログラミングを独学で頑張っている様をTwitterに投稿するクラスメイトには「そんなの投稿してアピールすんな」と腹のなかで毒を吐いた。
あらゆることが楽しくなかった。気に入らなかった。自分より良い思いをしている人たちが許せなかった。
しかしこれらの妬み僻みは全て自分の嫉妬に由来するものだ。
「俺の言うことが圧倒的に正しいから俺の叩きは正当だ。」
なんて思っていても、その根底には嫉妬がある。
「あいつは親の金で留学に行ってる」
→「俺だって留学に行きたいけど金がない」
「ウェイがつまらない話で盛り上がっている」
→「俺だってあの輪に入って楽しく盛り上がりたい」
「Twitterに勉強の成果投稿すんな」
→「俺だって頭良くなっていろんなことできるようになりたい」
全て批判の根本的原因は嫉妬になっている。自分に足りない自分が欲しいものを持っている人を目の当たりにすると、人は嫉妬にかられる。
それがリアルの場であれば直接相手にそのみっともない嫉妬をぶつける勇気もないため、結局ネットにぶちまけてしまう。
そして相手が有名人であればさらに批判に火がつく。
Twitterであれば誰でも簡単に匿名で言いたいことが言えるからだ。ネットの世界でなら何者にでもなれる。
自分が大したこと何一つとしてしてない人間でもまるで自分は全知全能かのように上から人をこき下ろし、徹底的に叩くのだ。本当の自分を隠しながら。
今回のりゅうちぇるさんに寄せられた批判も突き詰めれば嫉妬に駆られた結果生まれたものだろう。
「テレビで売れて金持ってるのが羨ましい」
「自分よりいい暮らしをしていて気にくわない」
「奥さんとも仲良くて完璧な旦那さん。なのに私は真逆で不幸。なんで?」
「真面目に働いてる私より稼いで、しかもタトゥーなんか入れやがって。調子乗るな。」
こんな負の感情の連鎖から批判が生まれたはずだ。根底には自分もりゅうちぇるさんみたいにテレビで売れて人気になって、好きなように生きて人生を楽しみたいけどそれができない。自分より遊んでそうなこの男がそれができてるのがうざい!許せない!といった具合に。
これらすべての嫉妬は「人は人、自分は自分」と考えるだけで解消される。
あくまで人は人、自分は自分なのだ。
生まれも違えば育ちも違う。親の仕事も違うどころか親がいるかどうかさえ家庭によって違う。通った学校も、できた友達も、付き合った相手も、何もかもが違う。
まずこの時点で人それぞれが違う考えを持ち、人によって異なる生活をしているのは当たり前だ。
そりゃ時の運というのもあったろう。
その人がうまくいっているのは運によるところが多く、たまたま幸せを手にしただけかも知れない。
しかし「だから気に入らない!叩いたろ!」ってのはとんだお門違いだ。
あくまで人は人、自分は自分。今いる境遇に差が出るのは当然だ。
それに絶対にあなたには、あなたにしかない才能がある。絶対にだ。
僕なんかはただの平凡な大学生だけど、このブログを書き出して文章を書くことにハマった。書き続けているうちにこれこそが僕の得意なことだと思うようになった。言ってみれば才能である。今でも読んでくれる方の心に響くよう、正直に、まっすぐに文章を書いているつもりだ。
そして今、僕にとってそういった得意なことをせずに他人の揚げ足を取るのは時間の無駄でしかない。
人は人、自分は自分。
いくら嫉妬したってその人に生まれ変われるわけじゃない。それに誰かを叩けばその分自分の気分も絶対悪くなる。
「言ってやったぜ!ハハ〜!」なんて強がっても心のどこかでは罪悪感があるはずだ。少なくとも僕はそうだった。誰かを叩けば自分まで気分が悪くなる。そんな不健康なことをしている暇があったら、人は人、自分は自分と割り切り、少しでも理想に近づけるよう好きなことをしていた方がいい。そう思えるようになった。
それにポジティブでいると何かと良いことが引き寄せられてくる。人は人と、偏見なく誰でも受け入れていると思いがけない出会いがあり自分の世界が広がるんだ。今までパリピや出会い系をバカにしていた僕だが、そう言った偏見を捨て飛び込んだ結果、クラブや Tinderでいろんな楽しい出会いがあった。
過去の自分をすてポジティブになった結果だ。
結局のところ、人は人、自分は自分と思えるだけで人生は楽しくなる。
ただ今はそうではない人が大多数を占めている。今回のりゅうちぇるさんの件だけではなく、ZOZOTOWN社長前澤友作氏との交際を堂々と投稿し炎上した剛力彩芽さんをはじめ、ネコをペットショップで買ったHIKAKINさんに「保健所でもらえ」と批判を浴びせるなど、人の幸せが憎くてたまらない僻み根性の塊がこの国の大多数を占めている。
人は人、自分は自分と思えない人たち。
彼らはどこにでもいて、どこからでも攻撃を仕掛けてくる。
一番良い対処法は無視だ。そんなつまらない人と言い争っても何も生まれない。
僕の大好きな竜馬がゆくには坂本龍馬の議論は無駄だと一刀両断する場面がある。
議論に勝ったところで自分の意見を改めはしないし、負けた側は恨みしか持たない。ネットの世界ならなおさらそうだ。
相手の顔も名前も分からない、いくらでも嘘で自分を飾れる場所でわざわざ負けを認める必要はない。
汚い言葉で罵り、全く論理的でないリプの応酬が度々タイムラインで見受けられるのはこのためだ。
もし見るに耐えない批判が送られてきても、「人は人、自分は自分」の精神で「こういう風に思う人もいるのか。はいはい。」てな感じで黙殺するのが一番だ。構う必要はない。
シェイクスピアの代表作、オセローに
「嫉妬は自ら孕み、自ら生れ落ちる」
という有名なセリフがある。
すぐに批判に走る人たちは勝手に孕んだ嫉妬を自分勝手に人にぶつけているに過ぎない。
人は人、自分は自分。この精神を忘れず自分の幸せを掴み、他人の幸せを祝福する余裕が持てればもっと楽しく生きられるはずだ。
その精神のもと、りゅうちぇる夫妻に第一子が無事産まれたことへのお祝いの意を表し、この文章の結びとしよう。