僕はジブリで義務教育を終えた。と言えるくらい今まで何十回何百回とジブリ映画を観てきた。これは冗談じゃない。
幼稚園の時は毎日トトロと魔女の宅急便を観た。たまにもののけ姫を観ては冒頭のタタリ神が森から飛び出てくるシーンでうわーんと泣いていた。千と千尋の神隠しでは千尋の両親が豚になるシーンや、カオナシが大きな口で次々と人間(正確に言えばナメクジ女とカエル男)を飲み込む姿を見てはギャーと泣いていた。
やがて小学校に入り中学校へ進み、高校に入ったところで再びジブリ熱が蘇った。辛い部活のオフの日に、一人で借りてきたジブリ映画を立て続けに見るのが心の救いだった。本当に嘘じゃなくて半端じゃないくらい見ていた。1日に4回魔女の宅急便を見てさすがに自分キモいなと思うこともあった。何か台詞を一つ言ってもらえばどの映画のどのシーンかを当てる能力も身についた。そして部活の友達にジブリを布教しまくった結果、一緒に鑑賞会をし三鷹の森ジブリ美術館に行くくらいまで、友達をジブリ好きにしてしまったこともある。
さてそんな僕だから金曜ロードショーで放送されるジブリはいい加減見飽きてると思われるかもしれないけど、きちんと毎回録画し、できればリアルタイムで見ている。これはもう癖みたいなもので、もう何回も見てストーリーもセリフも何もかも全て分かってはいるけれど、 Twitterのタイムラインを見ながらみんながどんな感じで楽しんでいるのかを見るのが楽しくてつい観てしまう。お祭りみたいなものだ。
そして今日8月10日はハウルの動く城が放送された。
ハウルの動く城も少なくとも30回は観たことがある。なんならブルーレイを持っているのでアホみたいに家で観ている。
僕がハウルを本格的に好きになったのは高校生になってからだった。それまではどちらかといえばもののけ姫や千と千尋など、ビジュアル的にもストーリー的にも現実離れしたファンタジー要素の強い作品が好きだった。
しかしだんだん年をとるにつれ、ファンタジー要素が他と比べて薄い作品も好きになってきた。例えばハウルの動く城は、魔法使いの世界が舞台で確かにファンタジー要素が強いのだが、街並みはヨーロッパ風であり、何より兵器を用いた戦争の話も出てくるため、もののけ姫や千と千尋、魔女の宅急便よりかはファンタジー要素は薄く現実世界に近い。そして他の作品と比べて違うのが、 恋愛模様が描かれている点だ。
中学生まではハウルとソフィーがキスをするというような描写がなんだか恥ずかしく、そこまで好きになれなかったのだが高校生の時はかなりハウルの動く城が好きになった。その甘酸っぱい恋愛模様に憧れたのかもしれない。
ちなみに声優もハウルの動く城あたりから豪華俳優陣が起用されるようになった。宮崎駿監督はもともと極度の声優嫌いで、今まで声優業に縁のなかった俳優を起用していたが、ハウルの声優は元SMAPの木村拓哉、ソフィーは倍賞千恵子(少女役も老婆役も演じています)、マルクルはみんな大好き神木隆之介くんだ。特に木村拓哉の声は、天才魔法使いながら自信がなく影のあるイケメンのハウルにぴったりだった。
さて声優の次に僕が好きなのが音楽だ。宮崎駿作品はずっと久石譲氏に楽曲の作成をお願いしてきた。彼の曲はとにかくジブリの世界観によく合う。ハウルの動く城の劇中によく流れてくるのは「人生のメリーゴーランド」という曲だ。これが本当にいい。明らかにハウルの世界観は、ヨーロッパ風であり、そこに魔法や戦争といった様々なテーマが織り込まれている。
クラシックでもなく、ファンタジー要素溢れる子供向けの楽曲でもなく、独自の世界観を表した小気味よくかつ厚みのある曲になっている。まさにハウルの世界観にぴったりだ。
そして最後になるがジブリ映画には全て糸井重里氏がキャッチコピーを付けている。ハウルの動く城のキャッチコピーは「ふたりが暮らした。」だ。
僕は宮崎駿は作品を通して生きることの素晴らしさを僕らに伝えてくれていると思っている。事実彼の引退会見の時(後日撤廃したが)、「僕は作品を通じてこの世は生きるに値するということを伝えたい」ということを話していた。
もののけ姫では、自然と人間が戦い、生存をめぐり争いが起きた。千と千尋の神隠しでは一人の平凡な少女が、神々の世界に迷い込み、懸命に働き成長し生きて現実世界に帰っていく様が描かれた。そして風立ちぬでは、 戦時中を生き抜いた天才飛行機設計者の堀越二郎を、堀辰雄の風立ちぬの小説に登場させ、「生きねば」のキャッチコピーのもと、美しい飛行機を作りたいと願う一方で殺戮兵器でもある零戦を生み出した男の半生を描いた。
そしてハウルの動く城では、一人の平凡な少女と魔法使いの青年との恋が描かれた。二人は偶然出会い、魔法の力で動くという不思議な城で暮らし、やがてお互いにかけられた魔法の秘密を知り、仲を深めていった。 やはりそこには「生きる」ことに対するメッセージが込められていると僕は思わずにはいられない。
宮崎駿作品では度々戦争が登場してきた。天空の城ラピュタでは、ムスカ大佐が地上を制圧するためラピュタの強大な軍事力を蘇らせようとした。もののけ姫では、戦国時代のため人間同士が争い、そして最終的には人間と自然の戦いが勃発した。風立ちぬは第二次世界大戦が舞台であり、これもまた戦争を扱っている。ハウルの動く城も戦争の描写があり、空爆で焼けた街が描かれている。
ただどの作品にも共通して言えることは、主人公たちは戦争を終わらせ、平和な世の中を手にするために戦った、というわけではないということだ。
確かにラピュタではムスカ大佐からパズーとシータはラピュタを取り戻したが、それは地上の平和のためというよりは、パズーの父親が見つけた天空の城を、邪な心を持った人間に汚されたくないという思いが強かった。
もののけ姫では最終的にシシ神様が殺され、 デイダラボッチの力により、森が再生したが、人間と自然の仲介役であったとも言えるサンは、人と共に暮らす道ではなく、森へ帰る道を選択した。人と自然の争いは決着はついておらず、戦国時代も終わったわけではない。まだ争いが続いたはずだ。
そして風立ちぬでは堀越二郎は戦争に勝つため、他の国よりも人を多く殺せる飛行機を躍起になって作ったわけではない。ただ美しい飛行機を作りたい一心で設計に没頭し、カプローニの「創造的な人生の持ち時間は10年だ。」の言葉のもと、彼の10年を必死に生き抜いた。
ハウルも同様だ。最後の場面で「くだらない戦争はやめる」と、宣言されていたが、 そもそも具体的に何の戦争かも説明されていない。戦争はやめるべきだとソフィーは訴えるが、いったいどことどこが争いをし、なぜハウルが駆り出されるのかについてもあまり説明はない。
宮崎駿が本当に伝えたいことは、争いごとのない平和な世の中を目指そうということではなく、その波乱の時代を生き抜いた人間の生命力ではないだろうか。もちろん宮崎駿自信反戦の立場をとっている。がしかし、 争いごとの悲惨さを伝えるだけであれば、わざわざファンタジーの詰まったアニメを作る必要はない。
宮崎駿作品はそれぞれ違ったファンタジーの世界を描いてはいるが、そこに登場する人物は、皆たくましく、強く、真ん中に一本の太い幹がある。それぞれの作品世界を貫く、この世は生きるに値するという彼のメッセージが、彼らの生き様を通して描かれていると、僕は思うんだ。
その点ハウルも例外ではなく、平凡な少女と気弱な魔法使いの青年が、 ともに困難に立ち向かい、成長し愛を深めていく様子が描かれている。
エンディングに流れる「世界の約束」を聞くたびに僕は泣いてしまう。
いまは一人でも二人の昨日から
今日は生まれきらめく
初めて会った日のように
僕の毎日はジブリに支えられていた。そしてそれは今も変わらない。見るたびに心を洗われ、力を尽くして生きるという強いメッセージを僕に与えてくれるんだ。
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