わしには、天がついちょる。大事をなそうとする者にはみな天がついちょるもんじゃ。
天保6年、土佐藩のとある郷士の家にひとりの男子が誕生した。生まれる前日の晩、母親は龍が天を飛ぶ夢を見た。生まれたばかりの幼子の背中にはまるで馬のような産毛が生えていた。
性は坂本、名は竜馬。
この不思議な前兆の元に生まれた男はのちに明治維新の立役者になり、日本を大きく動かして行くことになる。
一体どうしてこの土佐の地の一介の武士の家に、ここまで風変わりな男子が生まれたのか。これは天命としか言いようがない。
坂本竜馬は変人であった。
幼少期は泣き虫小僧としていじめられていたもののある時から道場に通い出し、頭角を表す。
江戸に剣術留学までし、数多の剣客を打ち破った竜馬は北辰一刀流の免許を取得する。
しかしそんな剣術こそが力と称されていた平和な江戸が一変する事件が起きる。
長い鎖国下にあった日本に突如ペリーが乗った黒船が来航。
幕府の弱腰外交を非難し、夷狄(外国人)を打ち殺すべしと奮起し、天皇を国の中心に戻そうとする勤王派と幕府の威厳を保とうとする佐幕派とで日本は真っ二つに割れた。
「竜馬がゆく」はそんな激動の時代に生きた坂本竜馬という時代の寵児と、より良い日本のために闘い、血を流し、そして志半ばで命を落とした武士の生き様を描いた歴史小説である。
僕は今、竜馬がゆくを5巻半分まで読み終えた。
一巻約400ページ。読み始めてから二週間。1800ページ近く一気に読み進めた。
ー血が滾る
という言葉は血が沸き立つかのように感情が強く湧き上がる様を指す例えだ。
僕は今、ページをめくるたびに血が滾り、歴史に名を残した武士の生涯に思いをはせ、時に涙するという贅沢な時間を過ごしている。
坂本竜馬は変人であった。と先ほど書いたが、それは彼の器があまりにも大きかったがためだ。
維新の最中、新撰組に常に命を狙われているにも関わらず、竜馬は刀も持たずに京の街を歩く。
わしには、天がついちょる。大事をなそうとする者にはみな天がついちょるもんじゃ。
この男は正当な教育を受けていなかったにも関わらず、天性の肌感覚で時代の動きを敏感に感じ取り、法螺とバカにされるような夢を大真面目に語り、聴くものをいつの間にか信じこませてしまう不思議な力を持っていた。
人が事を成すには天の力を借りねばならぬ。天とは時勢じゃ。時運ともいうべきか。時勢、時運という馬に乗って事を進める時は、大事は一気呵成に成る。その天を洞察するのが、大事をなさんとする者の第一の心掛けじゃ。
竜馬は当時の武士では珍しく、極めて現実的な見方をする男であった。感情に任せて無謀な決起を起こし、集団自決する武士の美学をよしとせず、一見呑気すぎるように見られながらも頭の中では冷静に時代を見極め、幕府を倒す機会を伺っていた。
そんな竜馬の人柄の良さというか器の大きさが次第に周りの人間を巻き込み、いつしか倒すべき幕府の高官、勝海舟に弟子入りし、その幕府から軍艦まで借りた竜馬は海軍学校を設立。
まだ時期尚早と神戸の地でその時を待った。
この物語の主人公は坂本竜馬だが、彼を取り巻く多くの魅力的な人物の生き様が物語の厚さを一層増している。
竜馬を育てた姉の乙女、同郷の秀才、武市半平太、竜馬と同じ倒幕の志士、桂小五郎に西郷隆盛。
他にも多くの武士が、町民が、一つの時代を終わらせ、新たな日本を作ろうと刀を取り、そして血を流し倒れていった。
そんな彼らの生き様は今の僕らには全く想像の及ばないもので、志を遂げるためになら死すら厭わず、多くの武士が自ら腹を掻き切り、非業の死を遂げた。
この狂っているとも言える武士道は、実際に夷狄に多大な恐怖を与えた。当時の外国の兵士には、目的のためなら喜んで命を差し出すという文化はもちろん存在せず、自ら腹を切って死ぬという武士道独自の文化は理解し難く、侍は首をはねても胴体だけで襲いかかってくると伝えられ、非常におそれられた。
そこまで言わせた武士たちの生き様を鮮やかに描いた司馬遼太郎の筆はさすがとしか言いようがない。
歴史小説なんて聞けばただ史実を時系列に沿って並べただけの眠くなるような小説だと思う方も多いかもしれないが、「竜馬がゆく」はそんなマイナスのイメージを払拭してくれた。
何か自分の心を揺さぶる刺激が欲しいと思っている方にはぜひこの小説を手にとって見て欲しい。
今僕は5巻を読み進めているところだが、あまりにも熱く、ブログに書かずにはいられなかった。
未だ僕の文書力では「竜馬がゆく」の魅力を伝えきることはできないが、心の底からお勧めできる。
ぜひ手に取り、激動の維新の時代を、竜馬とともに駆け抜けて欲しい。
また読み終わったら改めて記事を書いてみようかな。