皆さんの尊敬する人物は誰ですか?
スティーブ・ジョブズ、孫正義、イチロー、本田圭佑...などなど
己の力で未来を切り開き新たな世界を作り出してきた偉人がこの世にはたくさんいます。
ですが僕は、尊敬する人物は誰かと聞かれたら、マッスル北村さんと胸を張って答えます。
今回は僕が尊敬してやまないマッスル北村さんを紹介したいと思います。
1. 激動の高校時代
マッスル北村さんは、東京学芸大学付属高校という偏差値75の高校に在籍しており、現役の大学受験時には防衛医科大学と早稲田大学理工学部に合格しましたが、浪人の道を選び、二浪を経て東京大学理科II類に合格しました。
どこからどうみても秀才です。
そんな彼は、子供の頃からずっと
「人は何の為に生まれてくるのか。僕は、せっかく生まれてきたのだから、何か目標を見つけて、自分の限界まで挑みたい。そうしないと時間がもったいない。」
という信念を抱いており、
「僕には時間がない。」
が口癖でした。
そんな彼の想いは歳を重ねるごとに強くなっていき、常に自分の限界に挑戦していきます。
高校在学中は自転車に熱中し、大学へは行かず、競輪選手になることを志していました。
自分独自のトレーニングを実施し、ある日、200kmもの距離を一瞬たりとも休憩をせずに走破するという過酷なトレーニングに挑戦しました。
「まだ高校生だし、帰りが遅くなると親が心配するから」と深夜2時に家を出発し、それから16時間ぶっ続けで自転車をこぎ続けました。しかし、ゴールまであと少しのところで、彼を極度の喉の渇きが襲いました。そこで仕方なく、持ってきた牛乳パックを一気飲み。
ところが、16時間常温で持ち歩いていた牛乳は完全に腐っており、飲み干してすぐに北村さんは体調を崩し、道中完全に意識を失ってしまいます。たまたま近くを通りかかった人に助けられ一命をとりとめた彼ですが、その後、競輪選手と一緒に走る機会をえて、プロの走りを目の当たりにし、自分との圧倒的なレベルの違いから競輪選手になるのを諦めてしまいます。
その後ボクシングを始めますが、
「相手が気の毒でね。さぞ痛かろうって思うと殴れないの。自分が殴られたパンチの数を数えておいて、その数だけ殴るの。自分が殴られた分だけならいいかなって」
という彼の優しさが邪魔し、ボクシングも諦めることになってしまいます。
ですがボクシングジムにアルバイトをしながら通うアマチュア選手たちの姿に北村さんは大きな感銘を受けました。
「ボクシングジムでね、アルバイトで暮らしながら練習して、チャンピオンを目指す方がいらっしゃるのね。チャンピオンになれるかどうかなんて誰もわからないけど、その方はチャンピオンになりたいという目標に、人生を賭けてチャレンジしてるの。そういう姿勢って、人として素晴らしいなって思った。」
その後猛烈な受験勉強を経て、二浪の末、東京大学理科II類に合格します。決して彼は天才ではなく、妹さんは、「兄は天才というわけではなく、僕には時間がないと言うのが口癖で、常軌を逸した超絶努力で東大に合格した、努力の人なんです」と語っています。
「兄は、この本の内容を全て覚えるまで、僕は家に帰らないし、食事もしないと言って外出したら、本当に家に帰ってきませんでした。」
常人には到底できない超絶努力の末、最高学府に合格した北村さん。そして東大入学後、ボディビルに出会い、彼の運命は大きく変わるのでした。
2. 東大でのボディビルとの出会い
東大入学後、ボディビルを始めた彼は、勧められるままに関東学生選手権に出場します。しかし当時の彼は173cm、55kgのガリッガリでした。巨人の中に小人が紛れ込んだかのような状態で、惨めさに押しつぶされそうでしたが、次第に体の奥から怒りがふつふつと湧き上がってきました。
「自分の限界まで挑みたい。そうしないと時間がもったいない」
彼の信念が、再び燃え上がりました。
普段の食事に加えて、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらにサバの缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取。これらを吸収するために消化剤を大量に摂取。さらに鶏肉をミキサーにかけたものを大量に摂取しました。
その結果、彼の体重はわずか10ヶ月で
55kgから96kgまで増えました。
なんと40kgの増量です。
その後関東学生選手権をぶっちぎりで優勝し、さらにボディビルへのめり込んでいきます。
圧倒的な成長を遂げた北村さんでしたが、一方で学業の方には身が入らなくなりました。
「東大の近くまでは行くんだけど、ある道を右に曲がれば東大で、まっすぐ行けば公園なのね。でも僕はまっすぐ行っちゃうの。公園でトレーニングしちゃうのね。」
そして間も無く東京大学を中退してしまいます。ボディビルに熱中するあまり、東大をやめた彼は、「将来の自分はどうあるべきだろう。僕は人の役に立ちたい。お医者さまになろう」とまた一念発起。
「全部忘れてたから、また一からやったのね。」
二浪を経た、21歳のときの出来事でした。
そして超絶努力の末、一発で超難関、東京医科歯科大学医学部に一発合格します。
しかし、入学後も彼のボディビルへの情熱の炎は弱まることなく、すぐに中退してしまいます。
あらゆる退路を断ち、社会人ボディビルの道へ進んだ彼は、己の限界へと挑戦していくのでした。
3. 過酷なトレーニング
北村さんは高重量での過度なトレーニングでなんども筋断裂をし、試合前の減量では極限まで自分を追い込み、体の電解質が不足し、低血糖症で倒れ救急搬送されたことも何度もありました。
特筆すべきは、1985年アジア選手権における凄まじい減量です。
8月11日の実業団選手権に優勝した直後、急遽アジア選手権のオファーが入った彼はすぐにそれを引き受けましたが、すでに大会まで四日しかありませんでした。大会後で極度の疲労状態にあった彼は、「この状態で出ても結果は知れているので、少し好きな物を食べて筋肉に張りを持たせよう」と猛烈な勢いで食事を始め、わずか2日で85kgから98kgへ太ってしまいます。
試合を目前に控えているにも関わらず13kgも太ってしまった彼は、
電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅までの100kmマラソンに挑戦しました。
足の爪が剥がれようが、靴の中が血まみれになろうが、決して立ち止まることはありませんでした。
計120kmを15時間かけて走り抜いた結果、14kgの減量に成功。
そしてアジア選手権に出場。
ライトヘビー級のタイトルを手にしました。
4. ドーピング疑惑とその後
ボディビルダーとしてのキャリアを着実に歩んでいった彼は、当時日本ボディビルダー界のトップであった石井直方さんを破り、ミスターユニバースの出場権を手にしました。
しかしここで突如、ドーピング疑惑が浮上します。
筋肉増強剤であるナンドロロンの使用により、失格とされてしまったのです。居場所を失った彼は日本のボディビルダー界から去る決意をしました。
のちに自著で北村さんは、ドーピング疑惑について「はめられた。」と語っています。
その後、芸能界に進出し、幾多のテレビ番組に出演。甘いマスクと温厚な話し方と、驚異的な大きさの肉体とのギャップで世間の注目を浴びますが、本人によると金銭的にも労働的にも苦痛を感じるほど環境は劣悪だったようです。
そして2008年8月3日、ボディビルの世界選手権に参加するため20kgの急な減量を行った結果、低血糖状態となり急性心不全を発症。亡くなる数日前にも救急車で運ばれた際、身を案じた妹さんは
「めまいがしたらアメを舐めて。アメ一個でいいから」と懇願しましたが、「僕は、そんなわずかなカロリーすら摂取したくないんだ」と断る徹底ぶりだったそうです。
遺体を収容できるサイズの棺桶がなく、特注の棺桶で火葬場に送られたそうです。
享年39歳でした。
本名 北村克己
その名の通り己に打ち勝ち、自分の限界に挑み続けた北村さん。彼の伝説はこれからも語り継がれてゆくことでしょう。
少しでも彼に興味を持った方は、ぜひ自伝を呼んで見てください。
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